Wednesday, July 05, 2006

野村さんと聞いただけで、何か特別な尊敬の念、愛着の念が無性に私の中に沸いて来た

こんにちは、我が最愛の放送局CNN及び我が師と仰ぐBBCの皆さん!お元気ですか。お馴染みの小澤成次です。

昨日7月4日は、市役所へ行きそこから市営「いこまいカー」で警察署へ免許証の書き換えに行くつもりでしたが、1階のマッサージ器に座っていたら眠たくなってきてので、急遽予定を変更して、何時もの教育委員会へ行き、学校教育課 課長補佐 野村和典さんと「小中一貫校特区の申請」について話し会って来ました。


野村さんと聞いただけで、何か特別な尊敬の念、親密感、愛着の念が無性に私に沸いてきた。
何故ならば、何百年、何世代にも続いた我が家系の生業であった水車業「屋号、小澤重ェ門」の中で最後の「小澤重ェ門」に嫁がれた方、私から数えると曾祖母は、実は一宮市多加木の油卸問屋を営んでいた豪族、「野村家」から来られたからである。


偉大な曾祖母に心より敬服する
当野村家は、手広く一宮界隈から「綿花の種、菜種」を収集して、これを当時宮田村に小澤家を筆頭に約10軒程あった水車屋でさく搾油してもらい、持ち帰り、一宮、名古屋、稲沢、津島等に売りさばき、「油の問屋」として財を築かれた商人で豪族であったと祖母から何度も聞きことがある。

何よりも、多くは後に傑出した人物となられた男3子「長男小澤松太郎、次男我が祖父朝吉、三男八郎」、女3子「二人は可児村の豪族可児家に揃って嫁がれた。他の一人は跡取りとなった祖父の若死の後に代わって婿養子を採って小澤家本家を継承された」を出産されて母であって、真に尊敬に値する偉大な方であったことだ。
それに祖母が小口村「現在の大口村」の江戸時代から続く庄屋の酒井家「通称三軒家と呼称されている」から小澤家本家に嫁がれた頃には、この曾祖母は生存中であったので、「曾祖母は一年中毎朝真冬も、現在の大明神社へ行き洗顔と行水を欠かさなかった。」と厳粛な私生活ぶりを祖母から私達はよく聞かされたものだった。


祖父の弟に当たる小澤八郎氏は、海兵卒の鬼才の軍人であって、現在の私の大きな支えとなる教育者への最初の先人であった
ちなみに、小澤松太郎は、「学問は実生活に役立たない」との持論により、せっかく宮田小学校から入学を果たした愛知一中を中退した。木曽川の中で生まれ育ったので、大海原で安全、巧に船を船行させることはお手の物であったので、堀川、名古屋港、太平洋沿岸を舞台にして、大海原を巧に船を操縦して、今時の「回漕業」で巨万の富を若くして逐次着実に蓄えていかれた。
賢い秀才の松太郎おじさんは、どんどんと次から次へと将来性ある値上がり確かな東海道線名古屋駅付近「現在の新幹線名古屋駅付近の笹島辺り」の土地を買い増されていったのである。そして、彗星の様に名古屋屈指の大富豪家へと隆盛を極められた人物だった。

一方、祖父の弟に当たる小澤八郎は、愛知一中から当時の天下の秀才が集った海兵を経て、軍人であったばかりか、現在の私に大きな味方となる教育家でもあった。現役時代には、帝国海軍の基地であった「横須賀」「佐世保」に長年勤務され、又教育家として鳥羽にも住まれたが、引退後は後進の小澤家直系の親族男子一同の例に漏れずに、郷里の愛知県を守るために帰名された
現役時代には、日露戦争の最前線に立ち、潜水艦艦長として露海軍と交戦し、九死に一生を身を挺して体験された。

ちなみに、彼等二人の子孫達は、悉く一人残らず私と違って、旧帝国大乃至新制国立大の卒業者達ばかりである。
処で、先回言及した、大明神社の興廃は、小澤家の栄枯盛衰と大いに関連性が深いので、この相関性について、多くの写真を取り入れながら、後日他の日本製のブログで出来るだけ詳細に言及いたしたい。

尚、親族男子一同、戦後の教育制度においても、国立大学卒業者ばかりの中にあって、浅学不肖な私が、小澤家について言及することは僭越であるかもしれないが、自分の年齢を考える時又宮田村、神明神社についての記述事項を、江南市史編集者の執筆で拝読する度に彼等の基礎知識のお粗末さを耐えられないほどに嘆き、痛感するに至り、この段写真入りの小澤家直系男子の末席にある私の記述、登場が逐次必須であると判断する運びとなった。少しでも読者が真相を究明する契機となれば、私の意図する所である。宜しくその点関係各位殿にお許し願い且つご了解願いたい。

許可なくして転載、引用等の一切の借用を禁ず
小澤成次

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