Friday, February 02, 2007

----- 1 -----  旧一宮、尾西市程、イギリスに感謝しなければならない義務を負う街は全国中他にない

                    ----- 1 -----

我が人生の生き神様である、「戦後の負け組」の皆さん!我が最愛のCNN及び我が師とこよなく崇拝するBBCの皆さん!お元気きですか?寒さが日増しに厳しくなって行く、厳寒の2月に備えて呉れ呉れも健康に留意してお互いに頑張りたいですね!

年始は過ぎたが、現在中国の長春で開催中の「冬季アジア大会」における我が国の予想外の成績不振とか我が国の教育制度改革に言及する事案を勘案すると、引き続き日本語で作成することにする。

早速本題に入ることとしたい。



名将蜂須賀は、当時交通の至便性に大いに欠けていたにも拘らず、海岸地方へ出掛けて「時の人」との交友を絶えず温めて行った。現宮後に住む人々とは、大きくかけ離れた人生を歩み続けた、言わば斬新的進歩派に属する人物であった

私が住む江南市宮後地区を統治していた蜂須賀小六は、時の名君であった信長、秀吉に使え親交を温めて行ったので、当家は阿波の国の統治を委任される功績を得るに及んだ。当時の時世下では交通手段は言うまでもなく、馬とか人力による籠であったし、庄内川、矢作川等の大川に橋は殆ど架けられていなかったし、道路の整備状態も極めて不完全であったことから、此の地から現名古屋へ着くにしても、大仕事であった。それに関わらず、氏は狭い尾張の北端の限られた当地に引きこもる事なく、多くの交通の不便さに絶えず挑戦し続けて、この殻の中から出て行って、時の名君が多く住んでいた、海岸沿岸方面へ進出を何度も果たしたのであった。
換言すれば、当時の時代感覚からすれば、極めてすこぶる進取の気概に満ちた、進歩的な理念を抱き且つ実践いた、稀に見る斬新的進歩派の人物であったことに間違いはない。
であったからこそ、清洲藩士の織田信長とか現名古屋市中村区に本居を構える秀吉と交友関係を確実に益々深くに促進して行くことが出来たのである。これが事実か否かは別にして、矢作川の橋のたもとで、秀吉と直面したという逸話も生まれ、伝承され続けて来た所以である。

この観点からすれば、さしたる交通手段もなく、太平洋沿岸地方から可成奥地と断言出来た、この地区、詰り現宮後町の当時の住民達ばかりか現在のそれらとは、全く異なる、大きく超越した生活姿勢を生涯に亘って維持し続けたことは容易に想像出来る。




交通の至便性は、古今東西を問わずに、関係地区の発展に決定的要因となる

所で、交通の至便性が、文化文明の発展には直に大きく影響を及ぼすことは、今更強調するまでもない。江戸、明治の古き時代には、木曽川の豊かな水の恵みを享受して、この尾張一円では、川沿いの街、特に現宮田町が抜群の栄華を極めていたことは、水運業という卓越した交通の至便性を兼備していたことからも、容易に理解出来る。
併せて、当時の宮田村は、主食の米を精米する為の、水車業が最も盛んな所であったという二つの事由から、一時期は一宮村(現一宮市)よりも、遥かに栄えていた事態も決して不自然な現象ではない。極めて、納得できる成り行きである。



イギリスは、1765年に蒸気機関を発明、直ちに織機、紡績機の原動力となる。
木綿工業の隆盛を来たす
之を契機に、18世紀後半~19世紀前半の産業革命を行う
1814年に、蒸気機関車を発明。

これらの世界の知恵にこの北尾張地方で最初に直に浴する事が出来たのが、現一宮市であった
イギリスに於いて、ワットにより1765年に発明された蒸気機関は、織機や紡績機に原動力として利用化されて、世界史に刻む「産業革命」を方向づけた。
延いては1814年には、同イギリス人、スチィーブンソンにより、蒸気機関車が発明されるに及んだ。詰まり、1814年頃に発明した蒸気機関車が、約60年後に日本へ導入され、この驚異的な文明の
所産物体自体そのままの移入によって、現太平洋沿岸ベルト地帯でも鉄道が敷設されるに及んだ東海道本線の開通が(1889年 明治22年)、それまでのここ日本の国内に於ける何世紀にも亘る永年の市町村間の発達、勢力地図を180度塗り替える結果を招来した。

詰まり、人物の交通、移送を画期的「早く大量」に促進させる恩恵によくすることが出来た、東京~神戸間の当本線の沿線地域住民達は、拱手しているだけで、自動的に急速に且つ長期的に画期的な発展を招来することが出来た訳である。特に駅舎を設けられた周辺地域一円は、長期にわたり、驚異的且つ永続的発展を遂げ続けるに至った訳である。それら地域一円に住む住民達は、笑いが止まらない「棚から牡丹餅」の幸運を期せずして享受し続けた。
尚、詳説すれば、蒸気機関は時既に、何と1765年に発明されて、織機、紡績機の原動力として大活躍をする訳だが、蒸気機関車そのもの自体が、イギリスで発明されのは後後の1814年であったので、約60年後(1872年)に、我が国の品川~横浜間で、最初の鉄道が敷設、開通されるに及んだ次第だ。
この想像を絶する、機能、利便性を有した鉄道の登場は、1543年のポルトガルからの鉄砲伝来に相当する画期的大変化を、日本全土の広範囲にもたらした。

鉄砲と言う兵器は、日本古来の弓、刀の効能性を無にして、「兵器の大革命」を、我が国日本の地にもたらした。1575年に、徳川軍は、長篠「現愛知県新城市長篠」で、武田軍に包囲され陥落寸前となった為に、鉄砲をもつ信長の援軍を得て、一気に勝運を得たのは、有名な一好例であった。



明治以前の永い歴史においては、水運、交通の至便性に勝っていた宮田村の方が、一宮村よりも繁栄していた事態は、当然な現象であった

従って、名古屋に次ぐ尾張の主要都市となっている一宮市といえども、東海道本線という鉄道が敷設、開通されるに至った以前の永い、江戸時代から明治初期(19世紀中期)に及ぶ時代おいては、全く取るに足らない一介の濃尾平野にある一つの平凡な村に過ぎなかった事態、水運、交通の至便性に於いて遥かに凌駕していた宮田村の方が繁栄を来し続けていたという事態等は、決して不思議なことではない。決して、人々の理解しかねることではない。むしろ、当然な現象であった。
之専ら、世界の文明の力に浴することが出来た街と出来なかった街との大差の結果でしかない。
言い換えれば、鉄道の登場までの永い歴史においては、木曽川沿岸流域に延々と、、特に現江南市宮田、南野、本郷、四ッ谷、生原、神明地区に現北濃尾平野地方一帯の経済、文化、教育、政治、娯楽の中心は存し続けた事になる。
主たる地主も交通機関の一翼を荷っていた船が活躍できた、木曽川の流域に、比較的多く集中していた。
今の光明寺には、つい最近まで、即ち未だ我々が小学校時代まで、一ヶ所に八町藪という広大な土地が、堤防沿いに延々と伸びていた。この地区の地主であった、尾藤氏の所有のもので、この延々と続く有様は、昼間でも薄暗い処で、何時新聞と言うものが登場したのか知らないが、新聞がなかった時代とかバスが開通していなかった時代の江戸時代には恐らく何度か追剥ぎが出没したのではないのか?と思わせる程だ。

詰り、イギリスが発明した蒸気機関は、世界史に刻み込んだ、当国に(産業革命)を、誘発した一弾みとなったばかりか、東洋の東に浮かぶ小さな島の日本という国の全土においても、殿様から庶民、華族から平民に至るまでのあらゆる階層の人々にも、生活様式の大変化は勿論のこと、それまでの市町村間の勢力関係図をも一気に塗り替えてしまったのである。所謂、鉄道が開通した、太平洋沿岸のベルト地帯で駅舎が設けられた付近の市町村が、抜群の優位に立ち、事実笑いが止まらない急速なる発展を遂げ始めるに至る次第である。

例えば、ここ愛知県でも、名古屋は大昔から栄華を極めていたが、一宮、稲沢、特に一宮が他を大きく切り離して、長期の継続的な発展期に突入するに至った。他面、それまで栄華を極めていた、宮田村、布袋、岩倉等は、逆に特に宮田村(現江南市の堤防沿いの宮田地区)は時代の波から取り残されて行った訳である。

イギリスは、時既に1765年に(蒸気機関発明)という驚異的功績を世界に呈示した。それに引き続いて、1814年には、蒸気機関車を発明して、(交通機関の大革命)を世界にもたらした。
我が国日本は、それから遅れること約60年後に、品川~横浜にこれを導入し、(交通の大革命)に着行した。
先に記した様に、この尾張北部地方では一宮村が期せずして運よく、東海道本線が貫通し、駅舎が設けられる地点に選定されるというプロジェクトに組み込まれた。
一方、北尾張の雄であり続けた宮田村は、このプロジェクトから不運にももれた。これを契機に、かつて栄華を極めた宮田村は、往年の勢いを逐次逸し、更に敗戦による農地解放で、二度のパンチを食らって一層の下降を余儀無くされた次第だ。




もし、当時の鉄道敷設のプロジェクトから岐南、一宮がもれて、その代わりに各務原、江南、岩倉が採用されていたならば、勢力関係図は逆転していたことは明らかだ。
しかし、愛知全体の総合的な勢力は、全く変わっていなかったことも、明らかだ。

従って、もし当時のこのプロジェクトが、今とは異なる、岐阜、岐南から枇杷島へという経路ではなくて、僅か東方の岐阜から、現各務原飛行場や川島、現江南、岩倉、西春経由で枇杷島へというプロジェクトが取り入られ採用されていたならば、北尾張地方の勢力図は一昔前のままであった。

愛知全体の総合力も又、全くの不動ではあったが、現一宮、稲沢の今日の如くの隆盛は見なかったことになる。詰り、鉄道敷設地区についての計画の変行があったにしても、それが明治の初期であっても、愛知県内の県民の生命、県総合力においては、大差、大きな影響は生じなかった。これが、この項で私が一番強調したい点である。
詰り、現一宮、稲沢の代わりに、現江南、岩倉が台頭しただけのことである。青写真が、岐阜、岐南経由から、僅か東の岐阜、川島乃至各務原経由へなっていれば、何度も言う様に、一宮、稲沢の代わりに、江南、岩倉が発展を遂げていただけのことである。




悠久の太古の時代から、大河川として君臨してきた木曽川が、ダムからの供給水路を変えて、もし一宮、稲沢へ水を提供していなかったならば、どうなったのか?栄枯盛衰の問題ではなく、生死の問題となっていた。
大河川は、優れた文明、文化を育むという原点、世界の教訓に、時には耳を傾けよう!

これに比して、何万年、何億年という年月をかけて自然の恵みが形成した木曾川、そこに絶え間無く流れる滔々たる水量を、もし多くのダムを造って、南部尾張地方に供給されなかったとしたならば、北尾張の主要都市となっている一宮、稲沢を初め現在の世界に冠たる国際港都の名古屋や東海市は決して今日程の隆盛を極める形では誕生していなかった。

両者の違いは、雲泥の差である。これがこの項に於ける私の強調する結論である。
現代の日本人は自然の前に余にも、傲慢になっていないだろうか?
古今東西を問わず、大河川流域に優れた文明、文化は生まれると言われるのは、何故だろうか?
大原点に時には振返ってみる必要があるのではなかろうか?ドイツ原産のシェパード好きの私の色眼鏡をかけて見た持論、詰り我田引水の論法と言われるるかもしれないが、そんな原点に帰り戻った思考回路は、時には必要でなかろうか?
時には、宇宙から、遠く地球の上から、宇宙飛行士になったつもりで、我が国、我が町、我が身を見つめる余裕があってもよいのではないか?


海が醸し出す大量輸送が可能で、海洋性気候の特質の恩恵に預って来た、名古屋は江戸時代から先進地域であり続けた。それに比し、尾張の二番手の街、現一宮市はどうであったろうか?私の出身高校は、一宮にあるし、母は一宮生まれなので、一方ならぬ愛着が一宮にはある。
しかし、出来るだけ客観的に、即ち宇宙飛行士になったつもりで、視野を広くして、他地域との相関関係を観察しながら、この街一宮について、探求したい。
東海道本線の(尾張一宮)駅の周辺の旧一宮の市街地は、太平洋の入り江をなす伊勢湾からも大河川の木曾川沿岸からも共に程遠い。普通の歴史を享受してきたならば、さしたる発展はありえなかったことは、小学生でも分かる。
それなのに、何故今日に見るがごとくに、尾張第二の都市へと発展を遂げたのか?
要因は、
1、
周辺の地域一体が、木曾川が長年に亙り形成した扇状地の一角に存し、農産物に適する肥沃な土壌であること、更に広範囲な現一宮市が包括する、周辺の住民が、勤勉で聡明であったこと
2、
1889年(明治22)に開通したSL機関車による東海道本線の通過する地点に織り込まれたこと、更に駅舎が設けられる地点となったこと

の以上2点である。




旧一宮市、尾西市の方々は、近代に於いて、祖先代々、イギリスという世界の知恵の恩恵に、直にしかも二重に浴されてきた。当地の方々は、市民こぞって、イギリスという国へもっともっと感謝すべきではないのか?

更に幸運にももう一つ、遠いイギリスの地で発明された、文明の力である蒸気機関車の恩恵に、この尾張北地域では、いち早くしかも直に浴することが出来た、幸運を見過ごすことは到底出来ない。
注:1814年 イギリス、スチィーブンソンが蒸気機関車を発明
従って、この愛知県下で、一宮市民程英国に感謝しなければならない義務を負う市民は全国何処を探しても他にないことになる。この他に、一宮(元尾西市を含む)は、長い間日本一の毛織物、紡績の産地であり続けた。
世界的に周知の事実であるが、1765年にイギリスは、蒸気機関を発明して、このスチィーム、エンジンを、先ず最初に、織物、紡績に応用した。これが、世界に冠たるイギリスに於ける(産業革命)の発端である。
言うに及ばず、マンチェスターは、遥かに一宮や尾西以上の世界的に知られた織物の名産地だ。

私は、少年時期から、叔父の家や父から、(英語だけはしっかりと勉強しなさい)と言われ続けたので、何とか我が人生では常に英語に親しんで来た。こんな過程から、イギリスという国は好きである。

しかし、私以上に現一宮市民の方々は、先祖代々イギリスには、直に二重に恩恵を経済的に蒙って来られたので、もっともっと感謝すべきだ。イギリスの方向へは、足を向けて寝られない筈だ。





財政困難市に住む市民と言えども、肉眼で広大な敷地の宅地、そこに建つ豪華な近代建築の棲家、ガレージにある高級外車を眺めるだけで、気持ちに余裕が出来る。たとえそれら家主が、他地から来た落下傘部隊でも、若者には夢、希望を、大人には郷土愛、勇気を育んでくれる。
本の中の写真で見るのとは、全く違う臨幸感を覚える。

ましてや、彼等が決まって当地に脈々と何世代にも亘って住み続ける、古い知己関係者であったならば、尚更な臨幸感を実感する。

さて、この傾向に、善悪は別にして、益々拍車をかけたのは、
一に、太平洋沿岸地区に定着する住民数の増加に伴う、木曾川の水量の減少化 
二に、我が国にとっては未曾有の体験となった、第二次大戦の敗北による、片山内閣時の<農地解放>断行下での、木曾川流域で何世代にも亙って財を築いた大地主達の凋落、これに起因する精神的物質的支柱を失った、そこに住む各階層の住民達の路頭に迷う困惑、

の以上二点の惹起であった。


敗戦によって、全国各地の各市町村、部落には何世にもわたって土着して財をなした地主がいたが、(農地解放)によって一気に姿を悉く消して、各々の住民達も大きな精神的支柱を失い、路頭に舞うこととなったは、既に記した通りである。

特に、特筆すべきは、上記二項が及ぼし続けている、負の財産の大きさの意外性、即ち未だに尾を引き続ける、日本固有の良き伝統的習慣までも失い、何かはっきした実体を求心し、此にすがろうとし続ける、予想外に多数に上っている住民達の精神的崩壊、詰まり心の中にポッカリと空洞が出来たままでいる住民、市民の姿である。

敗戦によって、各市町村、部落には何世にもわたってこれらの土地に脈々と土着して、財をなした地主がいたが、(農地解放)によって一気に姿を悉く消して、各々の住民達も大きな精神的支柱を失い、路頭に舞うこととなったことは、既に記した通りである。
戦後、特に国民皆保険制度が徹底化されて来て、医療機関を利用する者の数は、増加の一途を辿っている。こんな世情下にあって、罹患者の裾野も広がり、それに伴い開業医の数も当然激増した。
例えば、ここ江南市でも、県下屈指の財政難に直面し続けている街であるとは言うものの、豪華な邸宅と広大な敷地を誇る開業医を、至る所で目にすることができる。相場は決まっている。

喫茶店の数が全国トップランクに入る我が愛知県であるが、その数は、ここ江南市では喫茶店の数を遥かに凌駕する。それら殆のお医者さん達の出身地は、姓字を見れば、当地ではないことは、直ぐに分かる。完全に共通した点は、彼等の所有の不動産である医院の敷地、建物のみならず住処の敷地、家もこの県下では貧困地帯であるに拘わらずに、群を抜いて敷地広大にして、建物壮大豪華であることだ。全く相場は決まっている。その有り様は、顕著で目を見張る程の形容そのもずばりである。きっと、彼等の日常の生活レベルも又そうであろうことは、多言を要しない。
言うに及ばず、確かに周囲の一般江南市民にとっては、自分達の資産とか日常生活レベルには、直接的には無縁、無関係である。

これから私が強調したい点に入る。
それでは、このような、さながら外国での生活様式を見せつけている彼等が、この地から姿を消し、いなくなればこの地に長年住み続ける一般市民達は、精神的経済的に、特に精神的にどんな負の影響を蒙るであろうか?という一点である。
きっと、狭い敷地の上に建つ小さな家家が見渡す限り広がるパノラマであるならば、如何に自分達の日常生活レベルの向上には少しの足しにはならないとはいうものの、きっと、自分達の己の精神的脆弱さを、招来して行くであろうことだけは確かである。心に余裕を喪失して行くことは確かである。

写真で見る豪華絢爛とした著名人の家屋敷とは全く違う臨場感を、この肉眼で見る視覚は醸し出してくれる。若者には夢、希望を醸し出してくれるばかりか、大人にも郷土愛とか勇気を醸し出してくれる。




戦後の土着民は、老若男女を問わず、何か実体のある一本筋の通った理念を求め続けている

話は戻るが、ましてや戦前の地主は、今時の他地からの落下傘部隊の開業医の一群とは違って、当地で何世代にもわたる長きに亘り、住み続けた関係上、当時の住民達にとっては、自分達自らばかりか、自分達の遠い親達も当地主達の家族とか家屋敷とは深いつながりを持ち続けた間柄だ。
お互いに、尊敬とか愛着を抱き会っていた。
結論付けると、部落、地区、村毎にいた地主の突如とした逸失は、脈々とこの地に住み続けている土着の現市民達には、今尚心に大きな空洞になっている。実体のある明確な精神的支柱となる、始めから終りまで一本筋の通ったある一つの明確な理念、思想を求め続けていることだけは、確かである。



                          ----- 2 -----  へ続く

---- 2 ---- ポリシーなき首長、市長は、要らない。税金の無駄遣いだ。

                     ー---- 2 -----


人間の細胞活動は、物理的に15~18歳がピークである。

全の人類の努力の成果は、最大多数の最大幸福に結び付く結実を遂げてこそ意味をなす。日々絶え間無く営まれている、人々のこんな日常的活動、労働は、果たして、こんな結実を多くの人々が納得出来るまでの域に招来させているだろうか?
人間の生命に限りがあるのに付随して、知的身体的機能は総じて20歳頃から下降線を辿り始める。良き例が経験、技よりも体力、心理的活動機能そのものずばりが物を言う、競泳とか記憶力の分野では、それより早い15~18歳時がピークである。
しかし、同じスポーツや心の活動機能の作用からなる学問の分野でも、同じことを何度も繰り返すことで円熟さを増す、俗に言う技、経験、職人の匠とか優れた先人の功績からヒントを得るという応用力的能力といった観点からすると、野球の打者や卓球やノーベル賞受賞者に見るが如くに、ズッーと年齢は上がり、25ー30歳が適齢期になったり、もっとはるかに年齢を重ねた40ー70歳が適齢年齢になったりもする。

若いころは、食品、飲料として物を買う場合に於いて、甘い物、油っこい物でなければ、お金が勿体ないという気分になっていた私である。実際、その時分は甘い物、油っこい物が、食べても美味しかった。体が求めていたからだろう。タバコを買うにも、ニコチンやタールの含有量が少ない品種は、金が勿体なく、買う気分にどうしてもなれなかった。

しかし、この年齢になると、食べる量が少なくなってきて、むしろ腹さえ膨れれば、どんなものでも良い、さっぱりとした物でも良いとカロリーの低い物を欲するようになってきた。それよりも最たる事由は、ここ日本に於いては、この年になっても(本当に美味しい)という味覚を覚えさせる物を食べようとすれば、何万円という大金を使わなければならないからだ。



ロシアでは、食べ物が安価で実に美味しい物が多い。日本では、何万円も要される。
日本の食べ物が総じて不味いのは、戦後の63制が惹起した、人の心の粗雑さ、神経の鈍感さに起因する。
93制への改革は、待ったなしである。

私は、世界一の教育制度を誇るロシアのサンクトペテルブルグに滞在していた頃に、近くのスーパーマーケットで食材、食品を賄っていた。ここで早速結論を記そう!
ロシアでは、特にそこの主要都市では、食品は値段が安くて、美味しい物が実に多い。この年齢になってものことだ。
この原因は、ロシア人の神経が遥か日本人よりも繊細であること(味覚も含む)に、起因する他の何物でもない。
言うに及ばず、彼の国の優れた教育制度が醸し出す、飽くまでも徹底的に頑固なまでの繊細、精密、正確な豊かな心は、遠い宇宙の大気圏外で一日に何十回も地球の回りを回転し続ける惑星、人工衛星を作り出した。
有人飛行の衛星では、螺子一つの緩み、枠組みの中の一片の小さな機材の僅な金属疲労も絶対に許されないことは、素人でも分かる。
何十年にも長年にもわたる、永くしかも遠い飛行、旅を可能にするのが、目的の日本人の常識外の代物だかである。
従って、人間の味覚、即ち舌の感覚を心地よくする、快感をもようさせる様な種類の味はどんなものがよいのか?こんな研究は、彼等にとっては、<朝飯前のたやすい御用>だ。


私がよく通ったスーパーマーケットでは、グラム単位で小分けして売ってくれる、味付けした野菜品の数々、鶏を一匹単位で丸焼きして味付けを施した品、ビールのつまみや子供のおやつとして、魚一匹を乾燥させて味付けした品、何十何百と種類が多い、日本で言うケチャップの品々、等などが売られていた。どれをとっても手頃な値段であるばかりか、我々60過ぎの高年齢者達にとっても、ただ黙々と時を忘れて食べさせ続けさせる、こんな美味しい物ばかりである。くどいようだが、再度明記しておく。どの食品も安価で美味しい。同時に、この歳になると、余程美味しい食べ物とか余程の美人でなければ、興味が持てないことも、併せて付記しておく。日本に於いてならば、何万円もの出費が要る。


この両国の食べ物間の違いは、両国間の教育制度の違いの他の物でもない。戦後の貧弱極まる63制という我が国の教育制度は、子供、青年男女、そればかりか大人達の心の豊かさ、神経の繊細さ、延いては人間の舌の味覚にどんな味が人間が欲する真のルアー物となるのか?こんな詳細に及ぶ研究心からも、疎遠にしてしまった。
殆どの日本人を鈍感な粗雑な神経の持ち主へと堕落させてしまった。

神経に繊細さ、正確さを欠くセンスなき者が、如何に体力が先ずものをいうスポーツの分野と言えども、どうして高度な技を習得して、各種の競技で勝機を得ることが出来ようか?国際大会で勝機を得ることが出来るはずがない。先のアジア大会の成績や今中国の長春で行われている冬季アジア大会成績が、何よりの証拠で、最近の好例だ。人口が半数以下の韓国に、完敗し続けているのは、決してフルークでない。
公教育による93制の確立は、待ったなしの緊迫性に迫られている。



思索「アミューズ、メディテイト」こそ、学問研究の基礎である

この項の結びとして、こんな住み良いロシアにおいても、旨くも不味くもない、味というものがない、ただ何となく満腹感を覚えさせてくれる、おかゆさんとかうどん、味噌汁が時々無性に食べたくなって来たことを、記して、話を戻したい。

この歳になると、新たに何かを覚えて何かの資格を取ってやろうという気力、記憶力は、最早喪失している。その代わりに、自分自身を含めて人々の経験、研究成果を集大成して、あるべき自分自身、この街、この地方、この国の方向性について、ゆったりと緑の木々に囲まれた環境の下で、ミューズ、メディテイトしたいという欲望に心底から掻きたてられる。
詰り、覚えることよりも、心行くまで思索に耽って見たくなり、この強い欲望を可能にしてくれる、喧騒感から一画離れて、健康的にも衛生的な緑の木々に囲まれた奥行きの深い物静かな環境、家屋敷が無性に欲しくなってくる。



我が家は、建立時と比べると、交通の至便性を獲得したが、他方、側道からの排気ガス、塵埃により、住宅としての機能を全く失った。側道に沿った一連の常緑樹の植林が、健康上にも安らぐ思索の環境作りにも、不可欠となった

我が家が建った約40年前には、木々と野畑の野菜の緑に囲まれて、屋敷をフェンスで囲み犬を二匹「瞬発力のある犬と持続力のある犬」屋敷内に放っておけば、保安は問題なくて、従って静かに思索にするには、最適な環境下にあったが、いつの間にか、直面する側道に引っ切りなしに車が往来して、汚染空気を撒き散らし、住処としては不健康な環境へと完全に悪化してしまった。


夏期には、側道に面する壁からクーラーを取り付け涼を確保しなければ死んでしまう。その可動時間中、殆ど一日中、どうしても外部の汚れた空気を部屋内に取り入れざるを得ない事となる。如何に多くの排気ガス及び塵埃を含有した空気が、我が書斎の中に入り込み、充満しているかは、濡れたタオルで顔や鼻孔を拭いてみると、一目瞭然だ。タオルが、真っ黒けになってしまう。暫く時間を隔てて、何度之を繰り返しても、タオルは真っ黒けになってしまう。

須く、人間歳を重ねるにつれて、雑菌を戦いやっつける免疫力、即ち雑菌に対する抵抗力が弱まって行く。ご老人が、長年の既存症を治癒するために、入院されると、全く別の新たな病原菌に冒されて、亡くなる事例が後を断たない。所謂感染症に誘発された合併症による死亡である。言うまでもなく、ご老人が入院されている病院内は、殆の一般家庭内よりも衛生的で、以て雑菌は少ないのが通例である。その上、院内には今時何処の病院でも抗生物質剤は、常備されている。
それにも拘わらず、感染症に起因する死亡者が実に多数に上るのは、若い頃のご自分と異なり、雑菌に対する抵抗力が弱いからに他ならない。正に、赤ん坊と同様な免疫に弱い体力へとなるからである。多くのお年寄りの方々が、ある既存症を治癒するために、本来は入院されたのに、<肺炎>でお亡くなりになるのは、この最たる例である。


私がここで言わんとしようすることは、我が家は、大いに便利性は確保したが、側道を頻繁に往来する自動車が放つ排気ガスや塵埃で、空気が以前とは格段の差で汚染されて、人が住む器、住宅としての機能は、著しく下落したことである。
緑の木々は、無数の葉を以て、汚染された空気の浄化作用に偉大なる効用を果たすことは、多くの科学者によって科学的に実証済みで、今更私が説明するまでもない。その上、木々の葉は、人間に無用な炭酸ガスを吸収し、人間の健康になくてはならない、酸素を排出してくれる。

車が頻繁に行き交うメイン道路に面する住宅には、葉の数が多くて細かい常緑樹<かいずかいぶき>の植樹が、道路沿いの垣根代わりに、必要であると専門家に指摘されているのは、この為である。

この家が建った約40年程前には、東方に中学校があって、勿論両間には家はなかった。風の強い日には、年中この学校の運動場から砂塵が舞い上がり、我が家屋敷に飛んで来たものであった。勿論、そんな日は、縁側が砂塵で色が変わったり、目に入り目が痛かったものだ。我が家等の2-3の家庭の永年にわたる悩みの種であった。
しかし、可也の時間が経由して、学校側が、西側フェンスに沿って一連の大きく黒々とした常緑樹を延々と植えた。今では専らこの一連の木々のお蔭で、運動場の砂塵が舞い上がり、隣接する民家に、降り下ろすという事態、公害は、全くなくなった。
知る人ぞ知る、生きた名教訓だ。

この人体に害を及ぼす公害に対する解決策は、側道側には、一連な「かいずかいぶき」の類の葉の総面積が広い常緑樹の植林が、不可欠だ。木の無数の葉は、外気の汚染された空気を浄化してくれる偉大な作用をしてくれるからだ。


そもそも、思索をより深く日々遂行し、研究をより深く推進して行く為のオプチマルな条件は、国公立大学の様な、広い敷地に多くの木々が生い茂った、物理的な環境が必須である。都心の私立大学に観るが如くに、高層ビルからなるコンパウンドという形状の校舎自体、決して物理的に好ましい環境とはいえない。まるで、百貨店か六本木ヒルズ一群の高層ビルと同じだ。
先ずここに集う人々、研究者、学生等に、心身に安らぎを与えなければ、本題のより深い思索の遂行による高度な研究は、困難になってくるものだ。

その点、国公立大学の殆どは、規模こそ大差はあるが、先進欧州諸国の大学の様に、比較的広い敷地、その中に生い茂る緑の濃い、多くの大木という物理的な形状を兼備しているのは、幸せと言うことが出来る。取り巻く日々の環境は、オプチマムと断言できる。




今回も言っておくが、私は概ね週に一回は市役所へ赴くので、(言葉を慎め)とか(良く考えてものを言え)といった言葉が聞こえて来そうだが、2007年に入ったので、今まで通りに、ここに言い続けておく。
(もし私が市長になったら、市内の全校を間違いなく小中一貫校にします)と、
そしてもし文部大臣になったら、(全国の全校を小中一貫校にします)と言明する。

前記の人を小馬鹿にしている、見くびっている不逞の輩である市行政に携わる一部の関係筋である方々に再度言って置く。
(私が市長になったら、必ず全国に先駆けて先ず江南市内の全校を小中一貫校にします)

市役所のロビーでよくライブで、即ち現在進行中の議会の様子を、テレビで見かける。あの程度の質疑応答ならば、誰でも出来るの一言に尽きる。むしろ出来ないほうが可笑しい。

処で、姪の住むカナダのヴァンクーヴァーでは、不慮の事故で、車椅子生活を余儀なくされた身障者である方が長年にわたって市長に就かれている。彼は、四肢不自由の身「二肢ではない」で、2010年には冬季五輪がヴァンクーヴァーで開催されるので、大役が待ち受けているが、無難にこなされるであろうことに誰も疑いを抱かない。
彼の任務完とうを疑問視するのは、一度も栄光の歴史「勝ち組」を経験したことがない旧古知野町の保守派や大阪雀も舌を巻く程の無教養の癖に他人に号令をかける事だけに長けた, 市長、市議や外からの優秀な新風の導入を嫌い高い垣根で斜陽に向かう閉鎖社会に固辞する能力に欠ける市職員等の、極めて僅かの少数派でしかない。

先日、ある地方広報で、江南市長が、「当市の財政は予想以上に苦しく、鉛筆、ボールペン、ノートに於いても無駄遣いは許されない。」と語っていた。
最もな話だ。「ああでもない、こうでもない」という不毛のやり取り問い、質疑答弁が市議会で多すぎるからだ。不毛の会議が庁舎内で多すぎるからだ。
ポリシーなき公務員、市長は、税金喰い虫で、要らない。さっさとやめて欲しい !

この県内屈指の後進地帯の江南市といえども、実に多くの知識人が市内に多く住んでおられることを、市長さん初め市議会議員の皆さんは、きっと十分にご存知であろう。
CNN及びBBCの皆さん ! 「戦後の負け組」の皆さん!健康に留意して、遅くとも着実に1歩1歩前進しましょう!

尚、この生涯の友、シャープのザウルスは、底知れぬ機能を宿している。それに、生身の人間ではなく、疲れを知らない機械である。まともに立ち向かっていては、名大や東大出の秀才でも到底太刀打ちできない。体を壊してしまう。
私は飽くまで、機械に使われるのではなく、機械を使う人間にならなければならない。
一日でも長生きして、この国の教育制度をあるべき姿へ代えなければならない。
今の調子のハイテンションを継続すれば、我が健康を害し兼ねない。害しそうである。もっともっと、ジムでの運動に時間を割かねばならない。こんな意味に於いて、引き続き日本語でブログを書き続けるが、この投稿頻度を、今までの週一から、次週からは2ー3週間に一度の間隔へペースをスロウダウン致したい。
記してご理解を乞う次第である。


許可なくして転載、引用等の一切の借用を禁ず
小澤成次