ー---- 2 -----
人間の細胞活動は、物理的に15~18歳がピークである。
全の人類の努力の成果は、最大多数の最大幸福に結び付く結実を遂げてこそ意味をなす。日々絶え間無く営まれている、人々のこんな日常的活動、労働は、果たして、こんな結実を多くの人々が納得出来るまでの域に招来させているだろうか?
人間の生命に限りがあるのに付随して、知的身体的機能は総じて20歳頃から下降線を辿り始める。良き例が経験、技よりも体力、心理的活動機能そのものずばりが物を言う、競泳とか記憶力の分野では、それより早い15~18歳時がピークである。
しかし、同じスポーツや心の活動機能の作用からなる学問の分野でも、同じことを何度も繰り返すことで円熟さを増す、俗に言う技、経験、職人の匠とか優れた先人の功績からヒントを得るという応用力的能力といった観点からすると、野球の打者や卓球やノーベル賞受賞者に見るが如くに、ズッーと年齢は上がり、25ー30歳が適齢期になったり、もっとはるかに年齢を重ねた40ー70歳が適齢年齢になったりもする。
若いころは、食品、飲料として物を買う場合に於いて、甘い物、油っこい物でなければ、お金が勿体ないという気分になっていた私である。実際、その時分は甘い物、油っこい物が、食べても美味しかった。体が求めていたからだろう。タバコを買うにも、ニコチンやタールの含有量が少ない品種は、金が勿体なく、買う気分にどうしてもなれなかった。
しかし、この年齢になると、食べる量が少なくなってきて、むしろ腹さえ膨れれば、どんなものでも良い、さっぱりとした物でも良いとカロリーの低い物を欲するようになってきた。それよりも最たる事由は、ここ日本に於いては、この年になっても(本当に美味しい)という味覚を覚えさせる物を食べようとすれば、何万円という大金を使わなければならないからだ。
ロシアでは、食べ物が安価で実に美味しい物が多い。日本では、何万円も要される。
日本の食べ物が総じて不味いのは、戦後の63制が惹起した、人の心の粗雑さ、神経の鈍感さに起因する。
93制への改革は、待ったなしである。
私は、世界一の教育制度を誇るロシアのサンクトペテルブルグに滞在していた頃に、近くのスーパーマーケットで食材、食品を賄っていた。ここで早速結論を記そう!
ロシアでは、特にそこの主要都市では、食品は値段が安くて、美味しい物が実に多い。この年齢になってものことだ。
この原因は、ロシア人の神経が遥か日本人よりも繊細であること(味覚も含む)に、起因する他の何物でもない。
言うに及ばず、彼の国の優れた教育制度が醸し出す、飽くまでも徹底的に頑固なまでの繊細、精密、正確な豊かな心は、遠い宇宙の大気圏外で一日に何十回も地球の回りを回転し続ける惑星、人工衛星を作り出した。
有人飛行の衛星では、螺子一つの緩み、枠組みの中の一片の小さな機材の僅な金属疲労も絶対に許されないことは、素人でも分かる。
何十年にも長年にもわたる、永くしかも遠い飛行、旅を可能にするのが、目的の日本人の常識外の代物だかである。
従って、人間の味覚、即ち舌の感覚を心地よくする、快感をもようさせる様な種類の味はどんなものがよいのか?こんな研究は、彼等にとっては、<朝飯前のたやすい御用>だ。
私がよく通ったスーパーマーケットでは、グラム単位で小分けして売ってくれる、味付けした野菜品の数々、鶏を一匹単位で丸焼きして味付けを施した品、ビールのつまみや子供のおやつとして、魚一匹を乾燥させて味付けした品、何十何百と種類が多い、日本で言うケチャップの品々、等などが売られていた。どれをとっても手頃な値段であるばかりか、我々60過ぎの高年齢者達にとっても、ただ黙々と時を忘れて食べさせ続けさせる、こんな美味しい物ばかりである。くどいようだが、再度明記しておく。どの食品も安価で美味しい。同時に、この歳になると、余程美味しい食べ物とか余程の美人でなければ、興味が持てないことも、併せて付記しておく。日本に於いてならば、何万円もの出費が要る。
この両国の食べ物間の違いは、両国間の教育制度の違いの他の物でもない。戦後の貧弱極まる63制という我が国の教育制度は、子供、青年男女、そればかりか大人達の心の豊かさ、神経の繊細さ、延いては人間の舌の味覚にどんな味が人間が欲する真のルアー物となるのか?こんな詳細に及ぶ研究心からも、疎遠にしてしまった。
殆どの日本人を鈍感な粗雑な神経の持ち主へと堕落させてしまった。
神経に繊細さ、正確さを欠くセンスなき者が、如何に体力が先ずものをいうスポーツの分野と言えども、どうして高度な技を習得して、各種の競技で勝機を得ることが出来ようか?国際大会で勝機を得ることが出来るはずがない。先のアジア大会の成績や今中国の長春で行われている冬季アジア大会成績が、何よりの証拠で、最近の好例だ。人口が半数以下の韓国に、完敗し続けているのは、決してフルークでない。
公教育による93制の確立は、待ったなしの緊迫性に迫られている。
思索「アミューズ、メディテイト」こそ、学問研究の基礎である
この項の結びとして、こんな住み良いロシアにおいても、旨くも不味くもない、味というものがない、ただ何となく満腹感を覚えさせてくれる、おかゆさんとかうどん、味噌汁が時々無性に食べたくなって来たことを、記して、話を戻したい。
この歳になると、新たに何かを覚えて何かの資格を取ってやろうという気力、記憶力は、最早喪失している。その代わりに、自分自身を含めて人々の経験、研究成果を集大成して、あるべき自分自身、この街、この地方、この国の方向性について、ゆったりと緑の木々に囲まれた環境の下で、ミューズ、メディテイトしたいという欲望に心底から掻きたてられる。
詰り、覚えることよりも、心行くまで思索に耽って見たくなり、この強い欲望を可能にしてくれる、喧騒感から一画離れて、健康的にも衛生的な緑の木々に囲まれた奥行きの深い物静かな環境、家屋敷が無性に欲しくなってくる。
我が家は、建立時と比べると、交通の至便性を獲得したが、他方、側道からの排気ガス、塵埃により、住宅としての機能を全く失った。側道に沿った一連の常緑樹の植林が、健康上にも安らぐ思索の環境作りにも、不可欠となった
我が家が建った約40年前には、木々と野畑の野菜の緑に囲まれて、屋敷をフェンスで囲み犬を二匹「瞬発力のある犬と持続力のある犬」屋敷内に放っておけば、保安は問題なくて、従って静かに思索にするには、最適な環境下にあったが、いつの間にか、直面する側道に引っ切りなしに車が往来して、汚染空気を撒き散らし、住処としては不健康な環境へと完全に悪化してしまった。
夏期には、側道に面する壁からクーラーを取り付け涼を確保しなければ死んでしまう。その可動時間中、殆ど一日中、どうしても外部の汚れた空気を部屋内に取り入れざるを得ない事となる。如何に多くの排気ガス及び塵埃を含有した空気が、我が書斎の中に入り込み、充満しているかは、濡れたタオルで顔や鼻孔を拭いてみると、一目瞭然だ。タオルが、真っ黒けになってしまう。暫く時間を隔てて、何度之を繰り返しても、タオルは真っ黒けになってしまう。
須く、人間歳を重ねるにつれて、雑菌を戦いやっつける免疫力、即ち雑菌に対する抵抗力が弱まって行く。ご老人が、長年の既存症を治癒するために、入院されると、全く別の新たな病原菌に冒されて、亡くなる事例が後を断たない。所謂感染症に誘発された合併症による死亡である。言うまでもなく、ご老人が入院されている病院内は、殆の一般家庭内よりも衛生的で、以て雑菌は少ないのが通例である。その上、院内には今時何処の病院でも抗生物質剤は、常備されている。
それにも拘わらず、感染症に起因する死亡者が実に多数に上るのは、若い頃のご自分と異なり、雑菌に対する抵抗力が弱いからに他ならない。正に、赤ん坊と同様な免疫に弱い体力へとなるからである。多くのお年寄りの方々が、ある既存症を治癒するために、本来は入院されたのに、<肺炎>でお亡くなりになるのは、この最たる例である。
私がここで言わんとしようすることは、我が家は、大いに便利性は確保したが、側道を頻繁に往来する自動車が放つ排気ガスや塵埃で、空気が以前とは格段の差で汚染されて、人が住む器、住宅としての機能は、著しく下落したことである。
緑の木々は、無数の葉を以て、汚染された空気の浄化作用に偉大なる効用を果たすことは、多くの科学者によって科学的に実証済みで、今更私が説明するまでもない。その上、木々の葉は、人間に無用な炭酸ガスを吸収し、人間の健康になくてはならない、酸素を排出してくれる。
車が頻繁に行き交うメイン道路に面する住宅には、葉の数が多くて細かい常緑樹<かいずかいぶき>の植樹が、道路沿いの垣根代わりに、必要であると専門家に指摘されているのは、この為である。
この家が建った約40年程前には、東方に中学校があって、勿論両間には家はなかった。風の強い日には、年中この学校の運動場から砂塵が舞い上がり、我が家屋敷に飛んで来たものであった。勿論、そんな日は、縁側が砂塵で色が変わったり、目に入り目が痛かったものだ。我が家等の2-3の家庭の永年にわたる悩みの種であった。
しかし、可也の時間が経由して、学校側が、西側フェンスに沿って一連の大きく黒々とした常緑樹を延々と植えた。今では専らこの一連の木々のお蔭で、運動場の砂塵が舞い上がり、隣接する民家に、降り下ろすという事態、公害は、全くなくなった。
知る人ぞ知る、生きた名教訓だ。
この人体に害を及ぼす公害に対する解決策は、側道側には、一連な「かいずかいぶき」の類の葉の総面積が広い常緑樹の植林が、不可欠だ。木の無数の葉は、外気の汚染された空気を浄化してくれる偉大な作用をしてくれるからだ。
そもそも、思索をより深く日々遂行し、研究をより深く推進して行く為のオプチマルな条件は、国公立大学の様な、広い敷地に多くの木々が生い茂った、物理的な環境が必須である。都心の私立大学に観るが如くに、高層ビルからなるコンパウンドという形状の校舎自体、決して物理的に好ましい環境とはいえない。まるで、百貨店か六本木ヒルズ一群の高層ビルと同じだ。
先ずここに集う人々、研究者、学生等に、心身に安らぎを与えなければ、本題のより深い思索の遂行による高度な研究は、困難になってくるものだ。
その点、国公立大学の殆どは、規模こそ大差はあるが、先進欧州諸国の大学の様に、比較的広い敷地、その中に生い茂る緑の濃い、多くの大木という物理的な形状を兼備しているのは、幸せと言うことが出来る。取り巻く日々の環境は、オプチマムと断言できる。
今回も言っておくが、私は概ね週に一回は市役所へ赴くので、(言葉を慎め)とか(良く考えてものを言え)といった言葉が聞こえて来そうだが、2007年に入ったので、今まで通りに、ここに言い続けておく。
(もし私が市長になったら、市内の全校を間違いなく小中一貫校にします)と、
そしてもし文部大臣になったら、(全国の全校を小中一貫校にします)と言明する。
前記の人を小馬鹿にしている、見くびっている不逞の輩である市行政に携わる一部の関係筋である方々に再度言って置く。
(私が市長になったら、必ず全国に先駆けて先ず江南市内の全校を小中一貫校にします)
市役所のロビーでよくライブで、即ち現在進行中の議会の様子を、テレビで見かける。あの程度の質疑応答ならば、誰でも出来るの一言に尽きる。むしろ出来ないほうが可笑しい。
処で、姪の住むカナダのヴァンクーヴァーでは、不慮の事故で、車椅子生活を余儀なくされた身障者である方が長年にわたって市長に就かれている。彼は、四肢不自由の身「二肢ではない」で、2010年には冬季五輪がヴァンクーヴァーで開催されるので、大役が待ち受けているが、無難にこなされるであろうことに誰も疑いを抱かない。
彼の任務完とうを疑問視するのは、一度も栄光の歴史「勝ち組」を経験したことがない旧古知野町の保守派や大阪雀も舌を巻く程の無教養の癖に他人に号令をかける事だけに長けた, 市長、市議や外からの優秀な新風の導入を嫌い高い垣根で斜陽に向かう閉鎖社会に固辞する能力に欠ける市職員等の、極めて僅かの少数派でしかない。
先日、ある地方広報で、江南市長が、「当市の財政は予想以上に苦しく、鉛筆、ボールペン、ノートに於いても無駄遣いは許されない。」と語っていた。
最もな話だ。「ああでもない、こうでもない」という不毛のやり取り問い、質疑答弁が市議会で多すぎるからだ。不毛の会議が庁舎内で多すぎるからだ。
ポリシーなき公務員、市長は、税金喰い虫で、要らない。さっさとやめて欲しい !
この県内屈指の後進地帯の江南市といえども、実に多くの知識人が市内に多く住んでおられることを、市長さん初め市議会議員の皆さんは、きっと十分にご存知であろう。
CNN及びBBCの皆さん ! 「戦後の負け組」の皆さん!健康に留意して、遅くとも着実に1歩1歩前進しましょう!
尚、この生涯の友、シャープのザウルスは、底知れぬ機能を宿している。それに、生身の人間ではなく、疲れを知らない機械である。まともに立ち向かっていては、名大や東大出の秀才でも到底太刀打ちできない。体を壊してしまう。
私は飽くまで、機械に使われるのではなく、機械を使う人間にならなければならない。
一日でも長生きして、この国の教育制度をあるべき姿へ代えなければならない。
今の調子のハイテンションを継続すれば、我が健康を害し兼ねない。害しそうである。もっともっと、ジムでの運動に時間を割かねばならない。こんな意味に於いて、引き続き日本語でブログを書き続けるが、この投稿頻度を、今までの週一から、次週からは2ー3週間に一度の間隔へペースをスロウダウン致したい。
記してご理解を乞う次第である。
許可なくして転載、引用等の一切の借用を禁ず
小澤成次
Friday, February 02, 2007
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment