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我が人生の生き神様である、「戦後の負け組」の皆さん!我が最愛のCNN及び我が師とこよなく崇拝するBBCの皆さん!お元気きですか?寒さが日増しに厳しくなって行く、厳寒の2月に備えて呉れ呉れも健康に留意してお互いに頑張りたいですね!
年始は過ぎたが、現在中国の長春で開催中の「冬季アジア大会」における我が国の予想外の成績不振とか我が国の教育制度改革に言及する事案を勘案すると、引き続き日本語で作成することにする。
早速本題に入ることとしたい。
名将蜂須賀は、当時交通の至便性に大いに欠けていたにも拘らず、海岸地方へ出掛けて「時の人」との交友を絶えず温めて行った。現宮後に住む人々とは、大きくかけ離れた人生を歩み続けた、言わば斬新的進歩派に属する人物であった
私が住む江南市宮後地区を統治していた蜂須賀小六は、時の名君であった信長、秀吉に使え親交を温めて行ったので、当家は阿波の国の統治を委任される功績を得るに及んだ。当時の時世下では交通手段は言うまでもなく、馬とか人力による籠であったし、庄内川、矢作川等の大川に橋は殆ど架けられていなかったし、道路の整備状態も極めて不完全であったことから、此の地から現名古屋へ着くにしても、大仕事であった。それに関わらず、氏は狭い尾張の北端の限られた当地に引きこもる事なく、多くの交通の不便さに絶えず挑戦し続けて、この殻の中から出て行って、時の名君が多く住んでいた、海岸沿岸方面へ進出を何度も果たしたのであった。
換言すれば、当時の時代感覚からすれば、極めてすこぶる進取の気概に満ちた、進歩的な理念を抱き且つ実践いた、稀に見る斬新的進歩派の人物であったことに間違いはない。
であったからこそ、清洲藩士の織田信長とか現名古屋市中村区に本居を構える秀吉と交友関係を確実に益々深くに促進して行くことが出来たのである。これが事実か否かは別にして、矢作川の橋のたもとで、秀吉と直面したという逸話も生まれ、伝承され続けて来た所以である。
この観点からすれば、さしたる交通手段もなく、太平洋沿岸地方から可成奥地と断言出来た、この地区、詰り現宮後町の当時の住民達ばかりか現在のそれらとは、全く異なる、大きく超越した生活姿勢を生涯に亘って維持し続けたことは容易に想像出来る。
交通の至便性は、古今東西を問わずに、関係地区の発展に決定的要因となる
所で、交通の至便性が、文化文明の発展には直に大きく影響を及ぼすことは、今更強調するまでもない。江戸、明治の古き時代には、木曽川の豊かな水の恵みを享受して、この尾張一円では、川沿いの街、特に現宮田町が抜群の栄華を極めていたことは、水運業という卓越した交通の至便性を兼備していたことからも、容易に理解出来る。
併せて、当時の宮田村は、主食の米を精米する為の、水車業が最も盛んな所であったという二つの事由から、一時期は一宮村(現一宮市)よりも、遥かに栄えていた事態も決して不自然な現象ではない。極めて、納得できる成り行きである。
イギリスは、1765年に蒸気機関を発明、直ちに織機、紡績機の原動力となる。
木綿工業の隆盛を来たす
之を契機に、18世紀後半~19世紀前半の産業革命を行う
1814年に、蒸気機関車を発明。
これらの世界の知恵にこの北尾張地方で最初に直に浴する事が出来たのが、現一宮市であった
イギリスに於いて、ワットにより1765年に発明された蒸気機関は、織機や紡績機に原動力として利用化されて、世界史に刻む「産業革命」を方向づけた。
延いては1814年には、同イギリス人、スチィーブンソンにより、蒸気機関車が発明されるに及んだ。詰まり、1814年頃に発明した蒸気機関車が、約60年後に日本へ導入され、この驚異的な文明の
所産物体自体そのままの移入によって、現太平洋沿岸ベルト地帯でも鉄道が敷設されるに及んだ東海道本線の開通が(1889年 明治22年)、それまでのここ日本の国内に於ける何世紀にも亘る永年の市町村間の発達、勢力地図を180度塗り替える結果を招来した。
詰まり、人物の交通、移送を画期的「早く大量」に促進させる恩恵によくすることが出来た、東京~神戸間の当本線の沿線地域住民達は、拱手しているだけで、自動的に急速に且つ長期的に画期的な発展を招来することが出来た訳である。特に駅舎を設けられた周辺地域一円は、長期にわたり、驚異的且つ永続的発展を遂げ続けるに至った訳である。それら地域一円に住む住民達は、笑いが止まらない「棚から牡丹餅」の幸運を期せずして享受し続けた。
尚、詳説すれば、蒸気機関は時既に、何と1765年に発明されて、織機、紡績機の原動力として大活躍をする訳だが、蒸気機関車そのもの自体が、イギリスで発明されのは後後の1814年であったので、約60年後(1872年)に、我が国の品川~横浜間で、最初の鉄道が敷設、開通されるに及んだ次第だ。
この想像を絶する、機能、利便性を有した鉄道の登場は、1543年のポルトガルからの鉄砲伝来に相当する画期的大変化を、日本全土の広範囲にもたらした。
鉄砲と言う兵器は、日本古来の弓、刀の効能性を無にして、「兵器の大革命」を、我が国日本の地にもたらした。1575年に、徳川軍は、長篠「現愛知県新城市長篠」で、武田軍に包囲され陥落寸前となった為に、鉄砲をもつ信長の援軍を得て、一気に勝運を得たのは、有名な一好例であった。
明治以前の永い歴史においては、水運、交通の至便性に勝っていた宮田村の方が、一宮村よりも繁栄していた事態は、当然な現象であった
従って、名古屋に次ぐ尾張の主要都市となっている一宮市といえども、東海道本線という鉄道が敷設、開通されるに至った以前の永い、江戸時代から明治初期(19世紀中期)に及ぶ時代おいては、全く取るに足らない一介の濃尾平野にある一つの平凡な村に過ぎなかった事態、水運、交通の至便性に於いて遥かに凌駕していた宮田村の方が繁栄を来し続けていたという事態等は、決して不思議なことではない。決して、人々の理解しかねることではない。むしろ、当然な現象であった。
之専ら、世界の文明の力に浴することが出来た街と出来なかった街との大差の結果でしかない。
言い換えれば、鉄道の登場までの永い歴史においては、木曽川沿岸流域に延々と、、特に現江南市宮田、南野、本郷、四ッ谷、生原、神明地区に現北濃尾平野地方一帯の経済、文化、教育、政治、娯楽の中心は存し続けた事になる。
主たる地主も交通機関の一翼を荷っていた船が活躍できた、木曽川の流域に、比較的多く集中していた。
今の光明寺には、つい最近まで、即ち未だ我々が小学校時代まで、一ヶ所に八町藪という広大な土地が、堤防沿いに延々と伸びていた。この地区の地主であった、尾藤氏の所有のもので、この延々と続く有様は、昼間でも薄暗い処で、何時新聞と言うものが登場したのか知らないが、新聞がなかった時代とかバスが開通していなかった時代の江戸時代には恐らく何度か追剥ぎが出没したのではないのか?と思わせる程だ。
詰り、イギリスが発明した蒸気機関は、世界史に刻み込んだ、当国に(産業革命)を、誘発した一弾みとなったばかりか、東洋の東に浮かぶ小さな島の日本という国の全土においても、殿様から庶民、華族から平民に至るまでのあらゆる階層の人々にも、生活様式の大変化は勿論のこと、それまでの市町村間の勢力関係図をも一気に塗り替えてしまったのである。所謂、鉄道が開通した、太平洋沿岸のベルト地帯で駅舎が設けられた付近の市町村が、抜群の優位に立ち、事実笑いが止まらない急速なる発展を遂げ始めるに至る次第である。
例えば、ここ愛知県でも、名古屋は大昔から栄華を極めていたが、一宮、稲沢、特に一宮が他を大きく切り離して、長期の継続的な発展期に突入するに至った。他面、それまで栄華を極めていた、宮田村、布袋、岩倉等は、逆に特に宮田村(現江南市の堤防沿いの宮田地区)は時代の波から取り残されて行った訳である。
イギリスは、時既に1765年に(蒸気機関発明)という驚異的功績を世界に呈示した。それに引き続いて、1814年には、蒸気機関車を発明して、(交通機関の大革命)を世界にもたらした。
我が国日本は、それから遅れること約60年後に、品川~横浜にこれを導入し、(交通の大革命)に着行した。
先に記した様に、この尾張北部地方では一宮村が期せずして運よく、東海道本線が貫通し、駅舎が設けられる地点に選定されるというプロジェクトに組み込まれた。
一方、北尾張の雄であり続けた宮田村は、このプロジェクトから不運にももれた。これを契機に、かつて栄華を極めた宮田村は、往年の勢いを逐次逸し、更に敗戦による農地解放で、二度のパンチを食らって一層の下降を余儀無くされた次第だ。
もし、当時の鉄道敷設のプロジェクトから岐南、一宮がもれて、その代わりに各務原、江南、岩倉が採用されていたならば、勢力関係図は逆転していたことは明らかだ。
しかし、愛知全体の総合的な勢力は、全く変わっていなかったことも、明らかだ。
従って、もし当時のこのプロジェクトが、今とは異なる、岐阜、岐南から枇杷島へという経路ではなくて、僅か東方の岐阜から、現各務原飛行場や川島、現江南、岩倉、西春経由で枇杷島へというプロジェクトが取り入られ採用されていたならば、北尾張地方の勢力図は一昔前のままであった。
愛知全体の総合力も又、全くの不動ではあったが、現一宮、稲沢の今日の如くの隆盛は見なかったことになる。詰り、鉄道敷設地区についての計画の変行があったにしても、それが明治の初期であっても、愛知県内の県民の生命、県総合力においては、大差、大きな影響は生じなかった。これが、この項で私が一番強調したい点である。
詰り、現一宮、稲沢の代わりに、現江南、岩倉が台頭しただけのことである。青写真が、岐阜、岐南経由から、僅か東の岐阜、川島乃至各務原経由へなっていれば、何度も言う様に、一宮、稲沢の代わりに、江南、岩倉が発展を遂げていただけのことである。
悠久の太古の時代から、大河川として君臨してきた木曽川が、ダムからの供給水路を変えて、もし一宮、稲沢へ水を提供していなかったならば、どうなったのか?栄枯盛衰の問題ではなく、生死の問題となっていた。
大河川は、優れた文明、文化を育むという原点、世界の教訓に、時には耳を傾けよう!
これに比して、何万年、何億年という年月をかけて自然の恵みが形成した木曾川、そこに絶え間無く流れる滔々たる水量を、もし多くのダムを造って、南部尾張地方に供給されなかったとしたならば、北尾張の主要都市となっている一宮、稲沢を初め現在の世界に冠たる国際港都の名古屋や東海市は決して今日程の隆盛を極める形では誕生していなかった。
両者の違いは、雲泥の差である。これがこの項に於ける私の強調する結論である。
現代の日本人は自然の前に余にも、傲慢になっていないだろうか?
古今東西を問わず、大河川流域に優れた文明、文化は生まれると言われるのは、何故だろうか?
大原点に時には振返ってみる必要があるのではなかろうか?ドイツ原産のシェパード好きの私の色眼鏡をかけて見た持論、詰り我田引水の論法と言われるるかもしれないが、そんな原点に帰り戻った思考回路は、時には必要でなかろうか?
時には、宇宙から、遠く地球の上から、宇宙飛行士になったつもりで、我が国、我が町、我が身を見つめる余裕があってもよいのではないか?
海が醸し出す大量輸送が可能で、海洋性気候の特質の恩恵に預って来た、名古屋は江戸時代から先進地域であり続けた。それに比し、尾張の二番手の街、現一宮市はどうであったろうか?私の出身高校は、一宮にあるし、母は一宮生まれなので、一方ならぬ愛着が一宮にはある。
しかし、出来るだけ客観的に、即ち宇宙飛行士になったつもりで、視野を広くして、他地域との相関関係を観察しながら、この街一宮について、探求したい。
東海道本線の(尾張一宮)駅の周辺の旧一宮の市街地は、太平洋の入り江をなす伊勢湾からも大河川の木曾川沿岸からも共に程遠い。普通の歴史を享受してきたならば、さしたる発展はありえなかったことは、小学生でも分かる。
それなのに、何故今日に見るがごとくに、尾張第二の都市へと発展を遂げたのか?
要因は、
1、
周辺の地域一体が、木曾川が長年に亙り形成した扇状地の一角に存し、農産物に適する肥沃な土壌であること、更に広範囲な現一宮市が包括する、周辺の住民が、勤勉で聡明であったこと
2、
1889年(明治22)に開通したSL機関車による東海道本線の通過する地点に織り込まれたこと、更に駅舎が設けられる地点となったこと
の以上2点である。
旧一宮市、尾西市の方々は、近代に於いて、祖先代々、イギリスという世界の知恵の恩恵に、直にしかも二重に浴されてきた。当地の方々は、市民こぞって、イギリスという国へもっともっと感謝すべきではないのか?
更に幸運にももう一つ、遠いイギリスの地で発明された、文明の力である蒸気機関車の恩恵に、この尾張北地域では、いち早くしかも直に浴することが出来た、幸運を見過ごすことは到底出来ない。
注:1814年 イギリス、スチィーブンソンが蒸気機関車を発明
従って、この愛知県下で、一宮市民程英国に感謝しなければならない義務を負う市民は全国何処を探しても他にないことになる。この他に、一宮(元尾西市を含む)は、長い間日本一の毛織物、紡績の産地であり続けた。
世界的に周知の事実であるが、1765年にイギリスは、蒸気機関を発明して、このスチィーム、エンジンを、先ず最初に、織物、紡績に応用した。これが、世界に冠たるイギリスに於ける(産業革命)の発端である。
言うに及ばず、マンチェスターは、遥かに一宮や尾西以上の世界的に知られた織物の名産地だ。
私は、少年時期から、叔父の家や父から、(英語だけはしっかりと勉強しなさい)と言われ続けたので、何とか我が人生では常に英語に親しんで来た。こんな過程から、イギリスという国は好きである。
しかし、私以上に現一宮市民の方々は、先祖代々イギリスには、直に二重に恩恵を経済的に蒙って来られたので、もっともっと感謝すべきだ。イギリスの方向へは、足を向けて寝られない筈だ。
財政困難市に住む市民と言えども、肉眼で広大な敷地の宅地、そこに建つ豪華な近代建築の棲家、ガレージにある高級外車を眺めるだけで、気持ちに余裕が出来る。たとえそれら家主が、他地から来た落下傘部隊でも、若者には夢、希望を、大人には郷土愛、勇気を育んでくれる。
本の中の写真で見るのとは、全く違う臨幸感を覚える。
ましてや、彼等が決まって当地に脈々と何世代にも亘って住み続ける、古い知己関係者であったならば、尚更な臨幸感を実感する。
さて、この傾向に、善悪は別にして、益々拍車をかけたのは、
一に、太平洋沿岸地区に定着する住民数の増加に伴う、木曾川の水量の減少化
二に、我が国にとっては未曾有の体験となった、第二次大戦の敗北による、片山内閣時の<農地解放>断行下での、木曾川流域で何世代にも亙って財を築いた大地主達の凋落、これに起因する精神的物質的支柱を失った、そこに住む各階層の住民達の路頭に迷う困惑、
の以上二点の惹起であった。
敗戦によって、全国各地の各市町村、部落には何世にもわたって土着して財をなした地主がいたが、(農地解放)によって一気に姿を悉く消して、各々の住民達も大きな精神的支柱を失い、路頭に舞うこととなったは、既に記した通りである。
特に、特筆すべきは、上記二項が及ぼし続けている、負の財産の大きさの意外性、即ち未だに尾を引き続ける、日本固有の良き伝統的習慣までも失い、何かはっきした実体を求心し、此にすがろうとし続ける、予想外に多数に上っている住民達の精神的崩壊、詰まり心の中にポッカリと空洞が出来たままでいる住民、市民の姿である。
敗戦によって、各市町村、部落には何世にもわたってこれらの土地に脈々と土着して、財をなした地主がいたが、(農地解放)によって一気に姿を悉く消して、各々の住民達も大きな精神的支柱を失い、路頭に舞うこととなったことは、既に記した通りである。
戦後、特に国民皆保険制度が徹底化されて来て、医療機関を利用する者の数は、増加の一途を辿っている。こんな世情下にあって、罹患者の裾野も広がり、それに伴い開業医の数も当然激増した。
例えば、ここ江南市でも、県下屈指の財政難に直面し続けている街であるとは言うものの、豪華な邸宅と広大な敷地を誇る開業医を、至る所で目にすることができる。相場は決まっている。
喫茶店の数が全国トップランクに入る我が愛知県であるが、その数は、ここ江南市では喫茶店の数を遥かに凌駕する。それら殆のお医者さん達の出身地は、姓字を見れば、当地ではないことは、直ぐに分かる。完全に共通した点は、彼等の所有の不動産である医院の敷地、建物のみならず住処の敷地、家もこの県下では貧困地帯であるに拘わらずに、群を抜いて敷地広大にして、建物壮大豪華であることだ。全く相場は決まっている。その有り様は、顕著で目を見張る程の形容そのもずばりである。きっと、彼等の日常の生活レベルも又そうであろうことは、多言を要しない。
言うに及ばず、確かに周囲の一般江南市民にとっては、自分達の資産とか日常生活レベルには、直接的には無縁、無関係である。
これから私が強調したい点に入る。
それでは、このような、さながら外国での生活様式を見せつけている彼等が、この地から姿を消し、いなくなればこの地に長年住み続ける一般市民達は、精神的経済的に、特に精神的にどんな負の影響を蒙るであろうか?という一点である。
きっと、狭い敷地の上に建つ小さな家家が見渡す限り広がるパノラマであるならば、如何に自分達の日常生活レベルの向上には少しの足しにはならないとはいうものの、きっと、自分達の己の精神的脆弱さを、招来して行くであろうことだけは確かである。心に余裕を喪失して行くことは確かである。
写真で見る豪華絢爛とした著名人の家屋敷とは全く違う臨場感を、この肉眼で見る視覚は醸し出してくれる。若者には夢、希望を醸し出してくれるばかりか、大人にも郷土愛とか勇気を醸し出してくれる。
戦後の土着民は、老若男女を問わず、何か実体のある一本筋の通った理念を求め続けている
話は戻るが、ましてや戦前の地主は、今時の他地からの落下傘部隊の開業医の一群とは違って、当地で何世代にもわたる長きに亘り、住み続けた関係上、当時の住民達にとっては、自分達自らばかりか、自分達の遠い親達も当地主達の家族とか家屋敷とは深いつながりを持ち続けた間柄だ。
お互いに、尊敬とか愛着を抱き会っていた。
結論付けると、部落、地区、村毎にいた地主の突如とした逸失は、脈々とこの地に住み続けている土着の現市民達には、今尚心に大きな空洞になっている。実体のある明確な精神的支柱となる、始めから終りまで一本筋の通ったある一つの明確な理念、思想を求め続けていることだけは、確かである。
----- 2 ----- へ続く
Friday, February 02, 2007
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